私は小さい頃からお母さんの様子を伺ってたと思う。
彼女には、機嫌がよい日よくない日があって、
よくない日に、彼女の癇に障るような言動をこちらが起こしてしまうと、
必ずといっていいほど雷が落ちる。
一瞬の雷ならばはいはいと流せても、数時間に渡る豪雨と雷鳴は子供にはつらいことで
だから多少の用心は、日ごろからの習慣だったのだ。
そうは言っても、完全に気持ちを読むことなんてできずに
幾度となく母のお説教を聞く機会はやってきた。
そのほとんどを受け流す形でやり過ごしていたから(数日経ったら内容を忘れているとか)
全力でぶつかってくれていた母には、大変申し訳ないとは思っている。
そういう風に流すのも嫌だし怖いのも嫌だから、顔色を伺っておとなしく生活していて
結果、母と兄との衝突回数よりも、母と私の衝突のほうが、断然少なかったと言える。
このような背景が、今の自分に影響しているのかどうかはわからないけれども
私はどうしても、相手の気持ちを探ってしまう。
何が原因で、どうしてこの人はこういう表情をしているのか。
今言った言葉の意味はなんだろう。
なぜ悲しそうなのか。どうしてちょっと怒った口調になったのか。
相手が楽しそうならばなんの問題はない。
しかし、ネガティブな様子が垣間見えたときに、私はどうしてもそれを改善したくなる。
もしその悲しさやつまらなさがわたしに由来するのもなら、
今すぐ謝るか居なくなるかをしたくなる。ほんとうにごめんなさい。
けれども、この相手の気持ちというのは、最終的にはこちらが想像で決めるものであって
正確な状態はいつだってわからない。
今語調が強かったから怒っているのかなあと思ったところで、それはたまたま強めに言うテストをしていただけなのかもしれず、今眉をひそめたのは、その人が不愉快な思いをしているわけではなく単に頭痛がしていただけなのかもしれず。
いつも、わかった気になっただけで、まるで見当違いな気持ちを汲み取っている気がする。
それでもやっぱり相手の中身を知りたいと思うし、知ろうという意識が働いてしまうのだけれど
それはよくないことなのだろうか。
表面をなぞって、ただ単純に、言葉で言われたことだけを解釈解析していればいいのだろうか。
表情だとか声色だとかというものに、意味は含まれていないのだろうか。
それらに意識を向けることは、果たして無駄なのだろうか。
あるはずのない心を知ろうとすることは、果たして無意味なのだろうか。